ジャカルタは多文化都市です。

ジャカルタ特有のブタウィ文化は、インド、ヨーロッパ、中国、アラブの影響を受けた融合文化です。

紀元4世紀にはスンダ·クラパと呼ばれたジャカルタはヒンドゥー教国パジャジャラン王国の賑やかな港として有名で、そこはインドネシア群島の各地から集まる多民族とともに中国、インド、アラビアからの商人達の居住地でした。スパイス諸島を歴遊したヨーロッパ大航海時代の1522年、ポルトガル船がここに初めて錨を下ろし、大量の貴重な唐辛子を持ち帰りました。

ヒンドゥー教スンダ王国を支援していたポルトガル人の権力を恐れて、イスラム教チレボン王国のファタヒラ王はその町を攻撃し、1527年6月22日にジャヤカルタという新しい町を築き、現在ではその日が正式なジャカルタ創設日となっています。1596年に最初のオランダ商人の船が到着し、1602年には英国籍東インド会社の船舶が続きました。

1619年、ヤン·ピーテルスゾーン·コーエンの下でオランダ軍はジャヤカルタを徹底的に破壊しました。その廃墟地に、オランダ支配の中心だったバタビアという新しい町(現在の旧バタビア)、そしてジャカルタの歴史を伝えるスタディスという現ファタヒラ博物館を建設しました

バタビアが周辺のドゥマやマタラムといったジャワ王国に攻撃され続けたため、オランダ人はヨーロッパ人と中国人のみがその内側に住むことができる防壁の町を築いて、先住民であるインドネシア人を近づけないようにしました。しかしながら、1740年におこった反逆と虐殺によって、中国人はグロドック(現在の中華街)へ追いやられて、彼らはそこを貿易とビジネスの拠点としました。

まもなく、多くの土着の人々は血族結婚して、やがてひとつのブタウィ族を形成しました。今日、ブタウィ人は首都ジャカルタの先住民として考えられています。

旧バタビアでは現在も多くのオランダ遺産の建造物が残っており、近隣のコタ地区は歴史的観光名所と同様に重要なビジネスの中心地として保護されています。かつての総督の邸宅や会社の建物等は現在、ワヤン博物館や絵画·陶磁器博物館となっています。

都市の発展とともに、政府は首都機能を南部のウェルトフレーデン、現在の中央ジャカルタのムンテン地域へと移しました。その地にオランダ人が宮殿、教会、大聖堂、劇場、博物館、そして高級住宅街を建設したため、一帯にオランダ植民地時代の建造物が数多く見られます。

1942年〜1945年の日本軍による占領の後、1945年8月17日にインドネシアは独立を宣言。インドネシア共和国の初代大統領にはスカルノ氏が選ばれました。バタビアは再び、ジャカルタへと名称が変更されました。スカルノ元大統領はジャカルタ近代化をさらに南方の現在のスディルマン通りまで計画し、インドネシア初の高層ホテルのホテル·インドネシアのほか、国定記念碑、イスティクラル·モスク、スナヤン·スポーツ·スタジアム、そしてスディルマン-タムリン大通りが建設されました。

この多彩な歴史ある多民族とその遺産を備えたインドネシアの首都ジャカルタは、過去の教訓と創造、次世代の技術革新と希望を提供することによって、国内外の関心と人材を集約する一都市となりました。

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